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渋谷区千駄ヶ谷1-1-24

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都内一等地にある、登山できる塚です。

登山道に入って里宮、途中に身禄像が収められた洞窟、烏帽子岩、小御嶽権現などを巡りながら頂上に達すると奥宮があります。そばに金明水・銀明水などもあります。もちろん湧いてるわけではなく窪んだ岩に溜まった水ですが。

案内看板には里宮は木造となっていますが、実際の里宮は御影石の立派なものです。

登山道と下山道が分かれており、途中ですれ違いなどはありません。登山道がぐるりと円を描く形で登っていますので、途中で登山道・下山道が交わりますがほんの一箇所です。

高さも二階建て程度でちょうどいい頃合いですし、登り下りもあまり危険な箇所もありませんし。なんといっても都内一等地、千駄ヶ谷の駅から5分ほどでアクセスがいいのがいいですね。

いつでも登れるのもポイント高いです。

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この富士塚は寛政元年(1789)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒ボク(富士山の熔岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向かって左側に木造の里宮の建物がある。

頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は、江戸築造の富士塚の基本様式を示している。

この富士塚は大正十二年(1923)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており、東京都内に現存するものでは最も古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。

昭和五十七年三月三十一日 建設

東京都教育委員会





# by starofkamuy | 2023-02-27 14:47 | 富士塚日記

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浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。

創建年代は不明だが、『浅草寺志』所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(1671)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約二メートルほどの高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人口の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。

江戸時代には浅草寺子修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。

本殿は、平成九・十年の改修工事によって外見のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・諸資料群・ 古文書などが大量に確認された。

これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以降の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。

祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・r九月の採取土・日曜日には植木市が開催されている。

平成十二年三月

台東区教育委員会


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浅草富士浅間神社と三好町


富士の山に似た小高い丘に勧請されたとされる当社は、元々は現蔵前の地である旧浅草三好町十番地に富士権現として鎮座されていたが、江戸時代元禄年間(1688-1703)に幕府の命により現在の地に遷座されたと云われている。

この三好町とは、『新選東京名所圖會 浅草區之部』に「浅草三好町。東は駒形河岸の南端に接し。西は電車路線を隔てて黒船町の一部に八幡町の一部に對し。南は南元町の北端に面し、北は黒船町の一部に隣れり。地勢は平夷にして。土地の番號は一より十に至る。」と記されており、現在の蔵前二丁目周辺と考えられる。

更に同書に依れば、「三好」とは「船首(みよし)」からの当て字とされており、この地一帯が地域における重要な御厨河岸であった事を表しているのであろう。

旧三好町自体は、時代の趨勢によりその名称が途切れているが、元禄年間以前からの同権現社の氏子であり、現在地へ遷座以降も、永きに亘り同じく当社の氏子として御祭礼に奉仕されると共に、今も尚その護持運営に格別なる御尽力を頂いている。


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場所としては浅草警察署の斜向かいにあたります。

浅草駅から向かうと、浅草寺・浅草神社を通り抜けて、徒歩15分ほどかかります。

浅間神社自体が一段高くなっており、富士塚はその一角にあります。

塚は登山道と下山道が分かれており、それぞれ7-8段の階段となっています。頂上に祠が祀られています。

塚としては小さめですが、登りやすいですし、いつでも登れますし、観光名所である浅草の一角ですし。そういった点では初心者向けのいい富士塚だと思います。




# by starofkamuy | 2023-02-20 15:27 | 富士塚日記

所在の鷲神社は古く、古代に日本武尊が興したそうです。

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当社は日本武尊、誉田別命、国常立命の三柱ほかを主祭神とし、末社に三峯社、客殿等がある。

古代に日本武尊が海岸線の近くにあったこの場所で先着の神々を浮島明神として祭祀し、尊を称え大鷲尊と唱えたという。文保二年(1318)武蔵国足立郡島根村の鎮守として中興され、島根村は現在の島根・梅島・中央本町・平野・一ツ家などを含む大村であった・

村内に七祠が点在し、元禄の頃、このうち八幡社誉田別命、明神社国常立命の二柱の神を合祀し、三柱明神の社として社名を鷲神社に定めたという。

この地域はもと風光に優れ、徳川吉宗の鷹場の故事に関わり、地元教育にも尽力した吉田順庵家塾や将軍石また酉の市祭祀等の伝えが知られている。島根富士講塚、富士信仰などもある。

社殿は氏子中の寄進により、昭和三十一年九月再建され、境内の整備も行われた。祭礼時に神楽殿で奉納される島根ばやしは昭和五十七年十二月に、島根神代神楽は同六十三年十一月に、それぞれ足立区登録無形民俗文化財となった。また、境内にある享和二年(1802)在銘の明神型石造鳥居は、千住四丁目の石工・保永助七手によるもので昭和六十年十一月、足立区登録有形文化財(建造物)となった。

令和四年三月

 足立区教育委員会

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鷲神社の本殿左手に稲荷様などの末社があり、その一角にあります。

富士塚としては小さい方でしょうか。高さは石段十段ほどですから、2m程度でしょうか。正面の階段の他に、裏に抜ける階段もあります。

小御嶽様の祠も手前に祀られています。




# by starofkamuy | 2023-02-16 16:22 | 富士塚日記

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保木間氷川神社の一角にあります。


祭神として、須佐之男命・豊受姫命・菅原道真を祀る。

当社の創建は明らかではないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった。それ故に隣接の天神社別当寺宝積院は、その山号を北斗山と称するという。

江戸時代、保木間・竹ノ塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治初め当社もそこに合祀されたが、明治五年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。

この地域一体は、伊興地区に次いで早く開け、平安期末から鎌倉期にかけて発展した。保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。

平成元年一月

東京都足立区教育委員会

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氷川神社本殿の左手に末社がまとめられており、榛名神社参道の看板もあります。

榛名神社の立派な鳥居の奥に、2-3mの立派な塚が聳えています。祀っているのが榛名神社ですから、正直、富士塚に含めていいかどうか悩みどころです。

ですが石碑は「富士山」となっていますし、補修時教の記念碑なども「富士塚」となっています。

浅間様を祀っているわけではありませんが、サンデーハイカーとしては「富士塚でもいいか」という感じです。


立派な塚ですが、「お山には登らないでください」という神社の看板がありますので、登山はできないようです。



# by starofkamuy | 2023-02-16 16:17 | 富士塚日記

東京都台東区下谷2丁目13−14


JR山手線・鶯谷駅 約700m 徒歩約10分



この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で、東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。塚は富士の熔岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原型がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
平成六年三月
台東区教育委員会



こちらの富士塚も、平時は登れない塚です。

毎年六月末から七月頭の数日間だけ登れるそうです。

柵の外から見た感じはそこそこ大きな規模の塚で、登りごたえがありそうです。


柵の外に祠があり、その脇に陽気な大黒様が踊っています。

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# by starofkamuy | 2023-02-07 15:34 | 富士塚日記